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9/13(水)キャプテンの一言

▼「時は今 雨が下知る 五月哉」明智光秀が
打倒・織田信長を決断した歌とされている。
本能寺の変が天正10年(1582年)6月2日、
決行の前5月の後半に京都・愛宕(あたご)
神社で行われた連歌の会で詠んだものとされ
ている。きのう(12日)の新聞各紙が光秀の反
織田派に宛てた書状が本物だったという記事
を大きく掲載していた。原本を発見した三重
大学の藤田達生教授によると山崎の合戦で
敗戦の1日前、反織田信長派の雑賀衆の
リーダー・土橋重治に宛てたもので、室町幕府
最後の将軍(第15代)足利義昭を奉じて幕府
を再興しようとする構想がうかがえるとしている。
ただ、この説には異論も多い。それは光秀の
謀反の理由には諸説あって定まっていないから
だ。2日の変からわずか11日後の6月13日には
天下分け目の山崎の合戦で敗走、小栗栖で農民
か落人狩りによって命を落としている。のちの
豊臣秀吉との戦い「山崎の合戦」については
天下分け目というより信長の後継争い、織田家
を誰が継ぐのか、といった方が正しいのではと
思う。だから政権交代の意味合いが強い1600
年の関ケ原の合戦の方が天下分け目に相応しい
と思う。光秀の冒頭の歌の「時」は明智氏が美濃
源氏土岐氏から出ているところから、また雨が
下しるは天下を治めると解釈されており、この時
に謀反を決断したとされている。しかし、これで
は時間的に性急すぎるだろう。

▼これまで多くの説がささやかれている。
①自身が信長に耐えられない、②朝廷黒幕説、
③将軍義昭黒幕説、さらに④秀吉説、⑤家康説―
などが主なものだが、この中で家康説は、堺見物
中で九死に一生を得た「伊賀越え」をして三河に
帰還しているのだからないだろう。事実、同行して
いた(別行動で脱出を試みる)穴山梅雪は命を
落としている。また、秀吉も毛利勢と岡山県の高松
城付近で対峙しており、一歩間違えば壊滅状態に
陥ることになる。これもとてもお薦めできない。
義昭は京都にいるときから武田信玄や上杉謙信
をはじめ反信長とみられる大名に手当たり次第、
打倒信長を奨める書状を送り続けている。かつて
部下だった光秀にも送っていたとしても不思議は
ない。もちろん、朝廷も信長の未来像を感じていたら、
天皇制そのものが無くなるという危機感があった
としてもおかしくない。単純に光秀自身が信長に
ついていけなくなったということもありえる。土橋
重治宛の書状は6月12日の日付だから、すでに
誰も味方につかず四面楚歌の状況だったから、
それこそなりそり構わず恩賞をエサに味方を
募っていた。誰も味方しないという事実は光秀一
人で動いたことを物語っているが、謀反を決断した
理由の一部には朝廷はじめある程度、味方に
なってくれる勢力が予想できたからだろう。残念
ながら秀吉の動きが速すぎたことで成就しなかった
ということではないか。ひとつだけの理由ではなく
複合的だったのでは…。

▼NHK大河「おんな城主 直虎」では北条氏康が
元亀2年(1571年)10月に他界した。10日放送
の武田信玄の品のない「死によった」と踊り叫ぶ
姿はあり得ないことだろう。いかにNHKといえども
武田信玄に失礼だとつくづく思ってしまった。翌年
の元亀3年12月に上洛への軍を起こし遠江は信玄
に蹂躙される。その年の年末、三方が原の合戦で
徳川・織田連合軍は武田に大敗を喫する。しかし、
奇跡が起こる。信玄が病を発し翌元亀4年4月甲斐
への帰途他界する。この9年後は本能寺の変だから、
信玄の跡を継いだ勝頼が我慢の人だったら武田家
滅亡はなかったかも…。いや、そんなことはないだろ
う。武田が滅んだから信長は京都にいた…。蛇足
ながら虎松が松下清景の養子になったが、おそらく
母のしのが再嫁したときに養子になったと思われる。
もちろん、命を守るためで井伊家再興をあきらめた
わけではない。

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