3.11から10年 誰かのために

 自室の押し入れを探した、10年前の3月12日付新聞。
 2011年3月11日、東日本大震災。筆者は当時、単身赴任で産経新聞東京本社編集局次長として朝刊づくりの準備に入っていた…忘れられない、忘れたい記憶。

◆午後2時46分、産経新聞東京本社の編集局。突き上げるような、突然大きな揺れが来た。初めて命の危険を感じ、階段近くにいたため必死に駆け下りた。外に出て数分、再び編集局へ…全エレベーターは停止、スプリンクラーから滴り落ちる水、まだギシギシと不気味な音が響く階段、上り降りする社員をかき分け12階まで上った。

 「号外だ!」「新聞を作り届けるんだ!」怒号の中、十数分で「列島激震」大見出しの号外を作り上げ、すぐ朝刊本体の作成。騒然とした編集局、何度も来る余震の恐怖の中での紙面づくり。目が血走った記者たちが刻々と変わる状況を追う。ようやく少し落ち着きが出てきた午前2時過ぎ、「福島第1原発で爆発、放射性物質漏れ」の一報。瞬時に判断、1面に短め記事だが大見出しを突っ込んだ。
 何としても伝えるんだ!読者に、そして誰かのために…記者たちが眠りについたのは午前3時を回った。翌日から通常と違う紙面づくり、”長い闘い”が続いた。

◆東北の被災地に比べものにならないが、大都会東京も”もう一つの被災地”だった。
 コンビニなど生活品不足、交通網寸断で帰宅難民。時折鳴り響く余震の緊急地震速報。電力不足に陥り、あわや首都ブラックアウト(全域停電)の危機に怯えた。節電のため、地下鉄までが1ヵ月は薄暗かったはずだ…「普通」の有り難さを知った。

 島国日本、「防災」意識も高まっている。それでもやってくる自然災害。被害を最小化するための準備、避難、地域、連係、耐震、マップ、防壁…「減災」を改めて今、考えたい。

◆3.12から編集局幹部によるコラム特別編「From Editor 3.11大地震」が始まった。書いた何本かの”駄文”の中に、以下がある(抜粋)。
《「昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然によって生かされてきた。(中略)…人間は助け合って生きているのである」。
 産経新聞記者の大先輩でもある司馬遼太郎さんが、小学校6年生用の国語教科書に書き下ろした「二十一世紀に生きる君たちへ」の一節だ。》
 今年は司馬さんが逝って25年の節目、胸に迫る。

 もう10年、まだ10年。今を生きる我々が、復興を支え抜く思いを新たにする日。

命見つめ つなぐ 
<2021.3.11 S>