月見草「19」 偉大な野球人

 プロ野球の南海などで活躍し、ヤクルト、阪神、楽天の監督を務めた野村克也さんが死去した(2月11日)。84歳、京都府出身。

◆1954年(昭和29年)に南海テスト生として捕手で入団。1965年に戦後初の三冠王、南海の黄金時代を支えた。70年からは選手兼監督となり、73年に優勝。その後ロッテ、西武に移籍し、1980年に45歳で現役引退。通算3017試合出場、657本塁打は歴代2位。9度の本塁打王、史上最多となる通算19回ベストナインにも選ばれた。1989年、野球殿堂入り。

◆監督としては「ノムさん」と親しまれ、1990年(平成2年)からヤクルトを率いた。データ重視の「ID野球」を掲げ、リーグ優勝4度、3度の日本一。データ野球と言われたが、戦力外を経験した選手を再び1軍の戦力として甦らせる手腕は「野村再生工場」と呼ばれ、「監督ってのは気付かせ屋なんだ」…不遇の選手に向ける情にもあふれた指導者だった。
 巨人の王、長嶋に強烈なライバル心を燃やし「王や長嶋がヒマワリなら、俺はひっそりと咲く月見草」とたとえた。「生涯一捕手」「ボヤキは高みに登ろうとする意欲」「弱者でも強者に勝てる」「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」など多くの名言も残した。

◆オヤジ世代には、何と言ってもスリバチ状の大阪球場(現なんばパークス)。南海の捕手、背番号「19」の勇姿だ。1970年代初め、中学生だったと思うが試合にワクワクしたとともに、大阪弁ヤジも独特の深さがあった。当時、捕手兼任監督の野村捕手に「南海の監督さん!キャッチャーへぼやから、替えた方がええでー!」バックネット裏からの大声に、思わず吹き出す。そこにはファンの愛情があった。
 都会のど真ん中大阪球場には、社会人になっても時折行った。7回以降は誰もが外野から”自由に”入ることができ、すぐ横の高島屋の地下で缶ビールとつまみを持ち込んで観戦した。お金のない若い頃のデート、一度や二度ではなかった…夏の風が心地よく今も肌に残る。
 なんばパークスには、ピッチャープレートとホームベース跡がある。

◆「二度も女房のせいで監督をクビになった」…南海監督時にいわゆる”不倫”と、阪神監督時のサッチー(沙知代夫人)脱税事件。「球界を追われたと言うが、幸せな人生だった。感謝しかない」と、沙知代さん(2017年死去)をかばい続けた。
 今の球界を引っ張る人材を育て日本野球を育て、自らは勝負の世界だけで生きてきた野村さんは晩年ボソっと「女房は道案内だった」「女房がいなくなって痛切に思う、男の弱さを…」。
 今シーズンから東北楽天ゴールデンイーグルス一軍作戦コーチの息子・克則さんは「自分があるのは、おかげ」。

◆最後まで球団幹部に就かず、反骨で咲いた野球界の大輪…とりわけ関西の喪失感は大きい。少子化が進み、野球人口も減っている日本。ノムさん!見守ってボヤいてほしい。

日本球界 継げイズム
<2020.2.13 S>

*週1本ペース(原則月曜日)で書いてきたこの報道コラム「喜怒哀楽」も、100回目となりました。変わらずニュース・人を見つめて続けていきたいと思っています。よろしくお願い致します。S