安倍首相辞任 この国の行方

 安倍首相辞任、予想外だった。今後の新型コロナウイルス「対策パッケージ」を発表、健康不安説を説明し政権運営を続けるだろう…と思っていたが。
 
◆早くから28日午後5時に設定さすれていた記者会見。夏休みを挟んだとはいえ2カ月半ぶりの官邸での会見姿だった。
 持病である潰瘍性大腸炎=国内患者16万人、下痢・下血・腹痛繰り返す症状=が再発したと説明。「国民の負託に自信をもって応えられる状態でなくなった以上、総理大臣の地位にあり続けるべきではないと判断した…」と述べた。
 7月から再発の兆しがあり、連続在職日数が単独1位になった日(8月24日)に辞任を決断したという。潔さの一方で、「美しい国」日本を掲げ、憲法改正、拉致問題、北方領土…無念も隠せなかった。
 
◆自民党総裁選、基本2通り。
・党大会を経る選挙ー国会議員394票と党員党友394票の計788票。
・両院議員総会で選挙ー国会議員394票と47都道府県に各3票の計535票。
 どちらになるかで結果を左右した歴史もある。コロナ禍の今時間がかかる党員投票を実施せず、両院議員総会で決定する方向…自民党執行部の思惑も見え隠れする。

◆安倍首相の辞任会見直後から、自民党各派閥の緊急会合が相次いだ。
 菅義偉官房長官(71)、岸田文雄政調会長(63)を軸に展開。麻生太郎副総理や二階俊博幹事長ら派閥の長の協力要請にも動いた。地方の支持はあるが、安倍首相との確執や議員内反感が強い石破茂元幹事長(63)は苦戦。
 派閥ごとにどの候補を支援するか多数派工作が水面下で激しくなる。”勝ち馬に乗れ”といった、後を見据えた戦略も渦巻く。

◆民主主義の根幹は多数決。だがそこには私を捨て国の行く末に尽くす、政治家の義務がなければならない。
 政治空白を少なくとはいえ両院議員総会は、やはり議員だけ派閥の論理…国民から離れた所での決定感は否めず、釈然としない。候補者の具体的な考え、政策が見えてこない。自民党員にとっても国民にとってもオープンな総裁選、それが一つの政治の信頼でもあろう。国民主権の民主国家たるべきだ。

◆新型コロナ禍と経済、さらに日米関係継承、対中韓北への明確なメッセージも必要だ。
 新首相の任期は来年9月、激動の歴史的な今後1年…いずれにせよ政治生命を賭した「有事の首相」そして政治屋でない「政治家」を望む。と同時に、我々国民も問われている。

「美しい国」 命かけて
<2020.8.31 S>

夏の夜空 大輪エール

    全国各地の夏の夜空に一斉に花火が打ち上がった(22日)。29都県81の花火業者が参加したという。

◆新型コロナウイルスの感染拡大防止で3密を避けるため、、打ち上げ時間や場所は事前に明かされなかったが、「大曲の花火」で知られる秋田県大仙市=写真=や東京都の旧築地市場跡地などで”大輪の花”が咲いた。

企画した「日本の花火を愛する会」は・新型コロナウイルスの影響で不自由な生活を続ける皆さん応援・「しあわせ」を提供してくれる花火業者激励​・亡くなられた方々への鎮魂と慰霊・献身的従事を続ける医療関係者に感謝激励・見えない悪疫退散への願いをこめてーとしている。

◆日本の花火の初使用が、いつどこで行われたかは明確でないが、遅くとも戦国時代に鉄砲・火薬とともに鑑賞用の花火が伝来したとされている。

「花火の記録」としては、伊達政宗の米沢城で、1589年8月夜、花火を見物したというもの(『伊達天正日記』など)や、1613年8月に徳川家康が駿府城で中国・明の商人から火の粉が筒から吹き出る花火を見せられたという記録(『駿府政事録』など)がある。
今も時々聞く掛け声「タマや〜」「カギや〜」は、江戸時代の夏を彩った”花火業”の屋号「玉屋」「鍵屋」からだ。

◆東京勤務時代、2001年9.11(NY・米中枢同時テロ)が起きる直前の夏。東京湾をのぞみ左手に台場、右手に東京タワーが見える”社宅”マンション28階から隅田川の花火を観た。見下ろすように観た弾ける炎、綺麗で快適だった…だが何か物足りない。響く音、火薬の匂い、そして汗、やはり本来の良さが伝わってこないと感じた。

◆今夏は移動もままならず墓参さえ行けず、on-lineで花火を楽しんだ人も…新型コロナウイルス収束を願うだけでなく、大切な人や故郷を思い、癒やしと力をもらった人も多いだろう。技術を活用する新しい生活は、今後ますます重要になってくる。だが、日本の夏を肌で知ることもまた忘れたくはない。

来夏は浴衣うちわ姿で、あの音と独特の匂いを嗅ぎながら、日本の夜空の芸術を味わいたい。

日本の夏 乗り越える

<2020.8.24    S>

*「喜怒哀楽」110回を超えました。変わらずに、人を出来事を見つめ伝えていきたいと思います(原則月曜・不定期)。S

終戦75年 命つなぐ

8月15日「終戦の日」、75年が経った。天皇、皇后両陛下、安倍晋三首相や戦没者遺族が参列し政府主催の全国戦没者追悼式が行われた。約310万人の冥福を祈り平和を誓った。新型コロナウイルスの影響で参列者は昨年の10分の1以下となり、戦没者遺族は70代以上が8割を占める。今を生きる我々そして明日を生きる次の世代が、どう語り継いでいくか。

◆特攻基地。南九州市の「知覧特攻平和会館」、薩摩半島の陸軍最後の特攻基地と言われた「万世飛行場」…少なくなる一方の語り部は「単に特攻という事実だけでなく、隊員の気持ちや残された両親や妻たちにも思いをはせてもらえたら…」。

[穴澤少尉の手紙]

二人で力を合わせて努めて来たが、ついに実を結ばずに終った。そして今、晴れの出撃の時を迎へたのである。今は徒に、過去に於ける長い交際のあとをたどり度くない。あなたの幸せを希う以外には何物もない。

徒に過去の小事に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない。あなたは、今後の一時一時の現実の中に生きるのだ。穴澤は現実の世界には、もう存在しない。今後は明るく朗らかに。自分も負けずに、朗らかに笑って征く。

(昭和20年、婚約者に宛てて)

◆東京単身赴任時代、幾度も靖国神社を参拝した。あの杜の空気感は違う。靖国神社を参りたかったが移動もままならず、近くの大阪護国神社(大阪市、住之江公園駅)に足を運んだ。長いコロナ禍で参拝者はまばらだった。

戦争で亡くなった人たちを祀る護国神社が全国にはある。英霊感謝祭、みたま祭りの大阪護国神社には、子どもたちの描いた絵が提灯になり掲げられ「日本がんばれ」の文字も=写真。慰霊碑の前では老夫婦が、カップ酒を静かに出し供える姿…炎天下、こみ上げる思いを抑えきれなかった。

国策としての軍人・軍属へは早くから補償制度が作られた一方で、空襲などの民間被害者への補償は”置き去り”にされてきた一面も…忘れず、反省を新たにする。

◆平和のための「戦争批判」。そのことと、国を思い愛する人を守ろうと殉じた人を結びつけてはならない…英霊や先祖の「御霊」に、今の命と平和への御礼を伝える。毎年この暑い夏に思い、祈る。

手を合わせ 令和の誓い

<2020.8.17     S>

 

*人の出来事の、変わらぬ「喜怒哀楽」を伝えていきます。

withコロナ、猛暑…気をつけて、踏ん張って行きましょう。S

原爆の日 75年 特別な夏

 忘れてはならない日本の熱い夏-被爆から75年、8月6日・広島と8月9日・長崎の「原爆の日」。
 両式典には被爆者や遺族、安倍晋三首相ら政府関係者、海外からも各国・機関代表が参列したが、新型コロナウイルスの感染防止のため、参列者数は例年の10分の1…特別な夏となった。

◆「被爆者健康手帳」を持つ全国の被爆者はピーク時から6割減の約13万6千人となり、平均年齢は83歳を超えた。また、原爆投下時に広島市と長崎市の被爆地域にいた「直接被爆者」も約8万5千人で、30年前から6割以上減少した。
 戦後生まれの割合は8割を超え、被爆の実相を知る人が年々少なくなっていく…高齢化が進む中、記憶をどう伝承していくのか。今年も広島・長崎では、80代の被爆者から若い世代への「語りかけ集会」も行われた。生きる世代、さらに次の世代へ。

◆ 一瞬で命を奪われた人から原爆症で亡くなった人まで、原爆死没者は約50万人に上る。それでも、世界の核弾頭はなお約1万3千発。保有数はロシアと米国で約9割を占める(長崎大核兵器廃絶研究センター推定)。世界の保有数は減少しているが、1発の爆発規模は75年前と比べものにならない。
 大国の論理、人類が犯した大罪。

【広島 平和への誓い(全文)】
 令和2年(2020年)8月6日 
 子ども代表
 広島市立安北小学校6年 長倉菜摘
 広島市立矢野南小学校6年 大森駿佑

 「75年は草木も生えぬ」と言われた広島の町。75年がたった今、広島の町は、人々の活気に満ちあふれ、緑豊かな町になりました。この町で、家族で笑い合い、友達と学校に行き、公園で遊ぶ。気持ちよく明日を迎え、さまざまな人と会う。当たり前の日常が広島の町には広がっています。
 しかし、今年の春は違いました。当たり前だと思っていた日常は、ウイルスの脅威によって奪われたのです。当たり前の日常は、決して当たり前ではないことに気付かされました。そして今、私たちはそれがどれほど幸せかを感じています。
 75年前、一緒に笑い大切な人と過ごす日常が、奪われました。昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。目がくらむまぶしい光。耳にこびりつく大きな音。人間が人間の姿を失い、無残に焼け死んでいく。町を包む魚が腐ったような何とも言い難い悪臭。血に染まった無残な光景の広島を、原子爆弾はつくったのです。
 「あのようなことは二度と起きてはならない」広島の町を復興させた被爆者の力強い言葉は、私たちの心にずっと生き続けます。人間の手によって作られた核兵器をなくすのに必要なのは、私たち人間の意思です。私たちの未来に、核兵器は必要ありません。
 私たちは、互いに認め合う優しい心を持ち続けます。私たちは、相手の思いに寄り添い、笑顔で暮らせる平和な未来を築きます。 被爆地広島で育つ私たちは、当時の人々が諦めずつないでくださった希望を未来へとつないでいきます。
 
◆日本の盆そして墓参、ふるさとの絆…感染防止策をとり3密を避け、筆者は静かに行きたい。
 核家族が進み、身近な人の死に立ち会うことも減っていく子どもだち。また、かつては地域の大人たちも叱り教育した。学校で教壇で「命を大切に」と語るよりも、法事に顔を出すことの方が”命の重み”が伝わるのではないか。
 長い闘いのコロナ禍、苦しい時。リモートなど先端技術を活用した新しい生活、大事な事だ。一方で人は、ふれあいの中での社会的生き物…今生きていることへの感謝、忘れてはならない。
 
 8月15日「終戦の日」へ、日本の熱い夏は続く。

変わらぬ命 つなぐ
<2020.8.10 S>

命の民主化 李登輝元総統

 97歳で死去した台湾の李登輝元総統の追悼会場、炎天下に市民が長蛇の列を作り、遺影に花を手向けた(8月1日)。

 李元総統は日本統治時代の1923(大正12)年、台湾生まれ。旧制台北高から京都帝大(現京大)に進み、学徒出陣を経て、旧日本軍の陸軍少尉の立場で終戦を迎えた。
 自ら「私は22歳まで日本人だった」と語り、流暢な日本語で日本の人々にも親しまれた姿は記憶に新しい。現実的に、日本人の良さも悪さも知り尽くしたとも言える。
 
 ◆「民主化の父」。戦後の台湾を独裁支配した中国大陸の国民党政権を、6回の憲法改正などで内側から改革。初の台湾人総統として、確固たる姿勢で中国と対峙した。
 もう一つ忘れてはいけない。国民党政権が戦後行ってきた反日教育をやめさせたのは、2000年まで12年間、李総統時代だ。日本統治時代の台湾で進んだ教育制度や衛生観念の普及、インフラ整備といった史実を再評価し新たな歴史教科書を編纂、教育改革も行った。日本こそが見習いたい。

◆ 「街道をゆく・台湾紀行」取材などで親交があった作家の司馬遼太郎。義弟で司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市)の上村洋行館長は「歴史に残る大きな存在を失った寂しさを感じます」と悼んだ。 司馬さんと李元総統は、ともに大正12(1923)年生まれ。学生時代は同時期に学徒出陣を経験するなどの共通点もあった。
 李元総統は16年末から来日した際、京都市内にある司馬さんの墓を訪れたという。上村館長は「わざわざ立ち寄ってお墓参りをしてくださったそうです。情の深い、人間の大きな方だと思いました」と話した。
 日本は台湾断交など、時として台湾を失望させた。こう記している「惜しいが、日本の政治家には武士道精神が欠けていた」(李登輝実録)。日本人が忘れかけている「義と情」の人だった。

◆奇しくも死去の速報が入ったのは、筆者が1週間前に古本屋でふと手にとった「千の風になったあなたへ贈る手紙」を読んでいるときだった。李元総統は、この歌「千の風になって」が好きだったという…台湾内外で様々な所で、この歌が流れ悼んだ。

◆「尖閣諸島は、そもそも日本の領土」と明言した李元総統。中国大陸や台湾当局は「尖閣諸島は台湾の一部だ」と主張する中、批判を受けようとも信念の持論を堅持し続けた。アジア民主主義の政治リーダーとして強い存在感を示してきただけに、「李登輝なき台湾」さらに「アジアの行方」が気になる。

◆コロナ禍。方向定まらぬ政治、利優先に揺れる経済、自虐史観くすぶる教育…日本の誇りは。
 台湾の”千の風”に多くを学び、いま心に留めなければならないのは、日本ではないか。

信念貫いた アジアの”巨星”
<2020.8.4 S>