3.11 もう8年まだ8年

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あの日から8年が経った。

死者15000人以上、今なお行方不明者は2500人を超える。
小学6年生は20歳になった。生まれ育った故郷、我が家に未だ帰れない人も多い。
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◆2011年3月11日14時46分、産経新聞社の東京本社編集局。突き上げるようにガガガっと音を立て(そう思った)大きな揺れが来た。初めて命の危険を感じ、休憩中の10階から必死に階段を駆け下りた。外に出て数分、(紙面を作らなければ!という本能のようなものに押され)スプリンクラーから滴り落ちる水、まだギシギシと不気味な音の中階段を上って騒然とした編集局へ。
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「号外だ!」「何としても新聞を作るんだ!」怒号の中、十数分で「列島激震」大見出しの号外を作り上げ、すぐ朝刊本体の作成だ。
整理担当編集局次長として紙面作りだけでなく、新聞発行するため制作局・販売局・営業局との交渉責任者でもあった。見出しレイアウトの指揮と並行して、他局交渉にも追われる。間髪入れず次々と連絡が入る…仙台の印刷センターが壊れ稼働不能、新聞が刷れない。東京の印刷センターで印刷してトラックで運ぶしかない。さらに早く印刷するために、予定紙面を大きく減らし20ページに…広告も含め目いっぱい削りテレビ・ラジオ面、オピニオン面以外はすべて大震災ニュースにすると決断した。
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何度も余震に襲われるなか言葉を失う大津波映像、刻々と入ってくる速報。「巨大津波 東北壊滅」「首都混乱、いつ帰れる」「街が次々消えた」の黒ベタ(黒いバックに白い文字)大見出しが並んだ。深夜には福島第1原発爆発、放射線漏れ情報…午前2時過ぎの最終版を終えた記者たちの険しい顔が、頼もしく優しく見えた。
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◆この日から途切れることなく、東日本大震災の紙面づくりは続いた。記憶に残る紙面もある。
・3.11から50日目の大型連休初日、当番の編集長だった。
迷った末に1面トップは、爪痕が残る被災地仙台で行われたプロ野球・楽天ゴールデンイーグルスの”地元開幕戦”に決めた。各地を転々として試合をしてきた選手たちの全力プレー、スタンドには喪章をつけた人や涙するファン…何より湧き上がる歓声があった。
勝敗よりも試合ができる応援ができる、その気持ちを見出しにしよう。いくつも悩んだ結果、1面トップの見出しは「東北の底力  “お帰り”歓声」…被災地への読者への思いだった。
・3.11からほぼ1年後。社会面に小さい扱いだったが、グッとくる写真が載った。
笑顔の母に腕を引っ張られ照れ笑いを浮かべる、大きめの学生服を着た新中学生。入学式を終えて帰る途中の日常の写真に見えるが、周りに写る長屋風の家や帰る自宅は校庭に建てられた仮設住宅だった。見出しは「入学式 母と寄り添う帰り道」…記者の胸に迫る思い、エールが込められた。
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◆単身赴任の1Kルームに帰ったのは3日後。幸い積み上げっ放しの本、新聞が崩れて散乱、風呂の漏電くらいだった。その後も余震は続き、1階だったため何度も窓から逃げ出した。東北の被災地には比べものにならないが、東京も”もう一つの被災地”だった。
都会ゆえの弱さ…コンビニなど生活品不足、交通網寸断で帰宅難民。何より何度も電力不足に陥り、あわや首都東京ブラックアウト(全域停電)の危機さえあった。節電のため、地下鉄が長い間薄暗かったのを覚えている。人間はそれにも慣れるもので、地下鉄が明るく戻ったときには逆に電力は大丈夫かなどと思ったものだ。「普通」の有り難さを知った…。
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◆島国日本の「防災」、意識も高まっている。それでもやってくる自然災害。
8年前によく語られた「減災」ー災害時、ある程度の被害発生を想定した上で、その被害を最小化するための取り組み。準備、避難、連係、耐震、マップ、防壁・林などで減らすことのできる被害…「減災」もう一度、考えたい。
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伝えること 誰かのために
<2019.3.11    S>