キャプテンの一言 » 2014 » 8月

8/29(金)キャプテンの一言

2014/08/29 金曜日 - 22:23:06 by captain

▼おととい、きのうと2日連続で、国内で「デング熱」の
感染者が見つかった。東京・渋谷区の代々木公園では
きのう夕方、ヒトスジシマカ=ヤブカの駆除が行われた。
水曜日にも触れたように同じウイルスでもエボラウイルス
とは格段に恐怖感は少ない。
それは致死率の差に表れている。エボラは最も強力な
「ザイール型」が50から90%と強烈なのに対して、
デングではおおむね0・1%以下となっている。
しかし本来、日本国内での発生が終戦の1945年から
なかったわけで、それが発生したということは、国民に
防衛意識がないだけに非常に危険な兆候といえる。
「デング」という名称はスワヒリ語で「悪魔の病」という
意味からきているといわれている。
ちなみによく勘違いされる日本の「テング」は人を魔道に
導く魔物とか妖怪といわれているが、元々は中国では
凶事を知らせる流星と意味していた。

▼WHO=世界保健機関はついにシエラレオネの活動拠点から
医療スタッフを一時撤退させた。これは26日発表されたもの。
すでに国境なき医師団が「制御不能」を宣言していたので、
驚きはなかったが、エボラ出血熱の専門家すら感染している
状況で、医療関係者といえどもエボラの知識に乏しい人が
派遣されても危険なだけということになる。
月刊の科学誌「ニュートン」の最新号にエボラ出血熱について
詳しく特集されている。エボラ出血熱は5つのタイプが
あるとされる。1976年に最初に発生したザイール(現コンゴ)
とスーダン。「ザイール型」での致死率は80%を超えたが、
「スーダン型」では40から70%にとどまった。
ほぼ同じ時期に集団感染が起こったが、より致死率が高い
ザイールで発生した地域を流れるエボラ川から
「エボラ出血熱」と命名された。
また、1994年にコートジボワールで「タイフォレスト型」、
2007年にウガンダで「ブンディブギョ型」、そして1989年に
フィリピン由来のサルからアメリカで見つかった
「レストン型」の5つがあるといわれ、最も恐れられているのが
今回、西アフリカで感染拡大を続けている「ザイール型」
ということになる。

▼WHOは一時退避後の28日、エボラ出血熱の拡大について
西アフリカ4カ国だけで2万人を超える見通しだと発表した。
これは封じ込めるためのロードマップとともに明らかにした。
また、これまでの西アフリカ4カ国での死者は1552人となり、
感染者は疑いも含めて3069人となっている。
お手上げ状態かもしれないが、拡大は防がなければならない。
アメリカ国立衛生研究所はワクチンの臨床試験を実施すると
発表、感染拡大防止に期待したい。

8/27(水)キャプテンの一言

2014/08/27 水曜日 - 22:25:44 by captain

▼エボラ出血熱とは比べものにはならないが、同じようにウイルスに
よって感染を引き起こす「デング熱」が埼玉県で確認された。
海外からの帰国者で感染が確認されるケースは去年でもおよそ
200件あったが、今回の10代の女性には渡航歴がなく、
国内感染したもの。これは1945年以来69年ぶりとなる。
きょうのニュースでも取り上げているが、エボラ出血熱の致死率が
50から90%に比べ、数%から1%とそれほどでもないが、エボラと
同じく治療法がないという点では同じ。
デング熱ですぐに思い出すのは、ことしサッカーワールドカップが
行われたブラジルで大流行したこと。
日本代表チームも虫除けスプレーで対応していたことは記憶に新しい。
その時でもブラジル全土で36万人が感染したと伝えられていた。
また、ことし3月には南太平洋のフィジーでも大流行して11人が
死亡したと伝えている。感染者およそ1万5000人に対してだから、
死亡率は0・1%以下だから大きくニュースでも扱われなかったが、
とにかく感染者の多さは驚異的といえる。

▼デング熱がウイルスによる感染症だと分かったのは20世紀になって
からで、第2次世界大戦以降、急速に広がり現在は100カ国以上で
感染が確認されており、1年間での感染者は5000万人とも1億人とも
いわれている。これは媒介するネッタイシマカやヒトスジシマカの
生息地域が開発されて人間が混在するようになったことに加えて、
地球温暖化が挙げられる。これらはいずれも人類によってもたら
されたもので、いわば自業自得の部分も捨てがたい。
しかし、これだけ多くの感染者がでているにも関わらず、治療法が
確立されていないのは、ひとえに先進国ではほとんど発生して
いなかったという事実が存在するのではなかろうか。

▼エボラ出血熱の未承認の治療薬でアメリカ人医師は助かったが、
リベリアではアメリカから緊急輸送されて投与された3人の内、
男性医師1人が死亡したとリベリアのブラウン情報相が25日
明らかにした。あとの2人は希望の兆しがあるという。
亡くなった医師も投与当初は改善が見られたということなので、
早期投与が必要なのだろう。一方、フランス公共ラジオが伝えた
アフリカ開発銀行の試算によると、西アフリカの感染地域では
GDP=国内総生産=が最大で1・5%減少するという見通しを
明らかにした。さらにシエラレオネ東部では農業に従事する若者が
多く死亡したため食料危機に陥る可能性があると指摘している。
国境なき医師団は「もはや制御不能」としている状態であるが、
1日も早い終息を祈るばかり。

8/25(月)キャプテンの一言

2014/08/25 月曜日 - 22:21:11 by captain

▼きのうの札幌競馬場はGⅠ馬が4頭も出走した
GⅡ札幌記念(芝2000㍍、サマー2000シリーズ第4戦)が行われ、
⒋万6000人あまりの観衆で埋め尽くされた。同じ日の新潟競馬場が
およそ1万2000人、小倉競馬場がおよそ1万4000人だから、
凄さが分かろうというもの。グランドオープンした札幌での
メーンレースを制したのは3歳牝馬の桜花賞馬ハープスター(2番人気)、
GⅠ5勝で1番人気のゴールドシップが2着だった。1着と2着の差は
4分の3馬身、2着と3着のGⅠ馬ホエールキャプチャとの差は5馬身。
いかにこの2頭が抜けていたかが分かる。
ハープスターとゴールドシップの次のレースは10月5日フランス・
ロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞(芝2400㍍)になる。
世界で戦う馬が、国内の前哨戦で無様なレースをするわけには
いかないだろう。
しかし、レース展開は、向こう正面でゴールドシップが最後方、
ハープスターがブービーという位置、観る側はドキドキしながらも
結果良しということで、大いに楽しむことができたのではないか。
2頭ともう1頭ジャスタウェイには、どの馬でもいいから凱旋門賞で
優勝してもらいたい。

▼NHK大河「黒田官兵衛」のきのうの視聴率は関東地区で
13・0%と先週からイッキに3・7ポイントも悪くなった。
官兵衛にとっては重要な位置づけになる九州出兵で、吉川元春
(毛利元就の次男)とのやりとりなど事実かどうかはさておき、
非常に面白かったと思うのだが。その半面、徳川家康との駆け引きは
官兵衛がいない場面とはいえ淡泊な上に、相変わらず家康を
悪大名そのものに描いている。官兵衛の長男、長政との出会いなどは、
いかにも今回のNHKらしい演出で、関ヶ原の合戦で長政が家康に
味方することの伏線として表現されている。
この時代は官兵衛一人で表すのが難しい。なぜなら、時代の中心は
あくまで信長、秀吉であり、家康だから、官兵衛では時代全体が
見えてこないところに弱点がある。
しかし、主役3人を使いながらよくできていると思う。しかし、
視聴率は女性によるところが大きいと思われるから、かなりの
配慮が見え、配役にも気が配られている。新しいところでは
二階堂ふみさん演じる「茶々」はなかなかのわがままぶりで
素晴らしい。

▼あすからは官兵衛が上陸した福岡県北九州市の若松ボートで
SG「ボートレース・メモリアル」(旧モーターボート記念)が
始まる。優勝賞金は3500万円。ナイターなので最終レースが
終わった後、小倉の街で「ちょっと一杯」がちょうどいい時間。
思い出して懐かしい。

8/22(金)キャプテンの一言

2014/08/22 金曜日 - 21:49:54 by captain

▼氷床の溶解が心配されている南極で、3931種類にも
及ぶ微生物を採取したと20日付けのイギリスの科学誌
「ネイチャー」に掲載された。AFP時事によると、
発表したのはアメリカ、イタリアそれにウェールズ
(イギリス)の科学者による研究チームで、南極の氷床の
下800㍍にある地底湖「ウィランズ湖」から採取された
水や沈殿物を分析して見つかったもの。
このうち、87・0%がバクテリア(真正細菌)で
3・6%が古細菌だった。残りに関しては現段階で
分類できないものだったらしい。
実は去年、ロシアの科学者が南極のボストーク湖
(地底湖)から新種のバクテリアを発見したと注目を
集めたが、数日後に「実験室で混入したものだ」と
判明して「未知の生命体を発見したとはいえない」
という声明を出した。
今回は、これらの失敗を踏まえた上で、フィルターと
殺菌用UVシステムが取り付けられた熱水ドリルによって
採取された。地球上の生命はバクテリアの真正細菌、
メタン菌などの古細菌、そして、われわれほ乳類を含め
前記2種類以外の真核生物に分かれる。

▼それでは、西アフリカで爆発的に感染者を増やしている
エボラ出血熱の原因、エボラウイルスに代表される
ウイルスは何なのか? ちなみに18日までの死者はギニア、
リベリア、シエラレオネ、ナイジェリアの4カ国で
1350人に達している。このうち、医療関係者が80人以上
含まれている。普通に考えるなら細胞を持っていないので、
生物とは言い難いが、現実には人の体内で増殖している
ということは生きていると言えるのでないか。
これについて生命だとする科学者も存在する。
宿主が必要という絶対条件にはなるが、DNAまたはRNAで
遺伝情報を次に伝えることができるし、増殖することもできる。
非生命とは明らかに違うのではないかと思う。

▼エボラ出血熱で未承認の治療薬を投与されていた
アメリカの男性医師と女性の医療関係者が退院したという
ニュースが入ってきた。しかし、感染症の専門家は退院した
医師のケント・ブラントリーさんについて「輸血を通じて
エボラ出血熱の抗体を獲得した可能性もある」として薬の
効果かどうかは分からないとしている。
しかし、何も処置しなければ死ぬ確率が極めて高いのだから、
すべての感染者に投与してもらいたい。
また、WHOは来月上旬にエボラ出血熱への対応の
専門家会議を開くとしているが、遅すぎると言わざるを得ない。

8/20(水)キャプテンの一言

2014/08/20 水曜日 - 22:23:55 by captain

▼エボラ出血熱の感染拡大が著しい西アフリカのリベリアでは
19日全土に夜間の外出禁止令が出された。人の移動を制限して
拡大を食い止めたいとの判断で午後9時から翌日午前6時まで
外出が制限された。WHO=世界保健機関の最新情報によると、
16日までにエボラ出血熱で死亡したのは1229人となり、
その内リベリアは466人で、死亡する人のペースが他の国より
早くなっている。こうした状況で出された外出禁止令だが、
サーリーフ大統領は国内での感染が制御できなくなっていると
した上で「神がわれわれと国家を救ってくれますように」と
話している。もちろん、神が救ってくれるとは思わないが、
開発中の未承認の治療薬を投与したリベリア人の3人の医師の
容態について、リベリアのブラウン情報相は「目覚ましい
回復の兆候」とロイター通信が伝えており、こちらは朗報と
いえるだろう。この治療薬はアメリカ人に投与され、症状が
回復したことから、WHOが条件付きで認めたもので
リベリアが求めていたもの。リベリアでの症状回復は初めて
のこと。一日も早く量産体制に入ってくれることを望むばかり。
一方、国営ベトナム通信が保健省の話として伝えたところに
よると、ベトナムに入国したナイジェリア人2人が発熱の症状を
示していることから隔離して検査を始めたという。
まだ、エボラ出血熱かどうかは分からないが、常にこうした
緊張状態が世界中で続くことになる。発症国をはじめWHOの
対応が後手に回ったとしかいいようがない。

▼光さえ吸い込んでしまうといわれるブラックホール。
われわれの住む銀河系の中心にも巨大なブラックホールが
存在している。NASA=アメリカ航空宇宙局=は先週、
X線宇宙望遠鏡「NuSTAR」(ニュースター)のよって
超巨大ブラックホールが周辺のX線を引き寄せていく現象を
捉えたと発表した。「マーカリアン335」という超巨大
ブラックホールにコロナが落ち込んでいく様子を捉えたという。
「NuSTAR」は2012年6月にブラックホールを観測する
目的で打ち上げられた。なかなか光さえ逃げることができない、
ということに実感できないが宇宙にはわれわれのまだ知らない物質、
ダークエネルギーやダークマターが満ちあふれているらしい。
きょう、若田光一さんのパレードがさいたま市で行われ、
船長(コマンダー)としての帰還を祝った。さすがにイッキに
太陽系の外に飛び出すことは不可能だろうが、一人でも多くの
若者が遠い宇宙をめざしてもらいたい。

8/18(月)キャプテンの一言

2014/08/18 月曜日 - 22:27:05 by captain

▼きょうの読売新聞の夕刊に衝撃的な記事が掲載されていた。
それは西アフリカ、リベリアの首都モンロビアにあるエボラ
出血熱感染患者の隔離施設が武装集団に襲われたというもの。
エボラ出血熱での死者は14日までに1069人に達しており、
収束の兆しがみえていない。WHO=世界保健機関が認めた
未承認薬への効果にすがるしかない状況になっている。
こんな状況で起こった今回に事件、少なくとも20人の感染患者が
施設から逃げ出したという。しかも武装集団はエボラ出血熱
そのものの存在を否定し、何と患者の血液が付いたシーツなどを
持ち去ったとのこと。これによって、いままで安全地帯にいたと
思われる人までが危険にさらされることになってしまった。
当初、WHOは比較的、早期に収束するとみていたようだが、
14日になって方向転換した。
それは感染規模が正確に把握できていないということが判明して、
現状よりも実際は深刻な事態になっているという声明にも
表れている。そしてエボラ出血熱の流行は当分収まらないと
している。この世界で一番恐ろしい病気への認識が甘かったと
しかいいようがない。
これまでが限定的で、しかも直接接触しない限り拡大しないと
考えられていたからだ。隔離施設を襲った武装集団を含めて
西アフリカでは、エボラ出血熱そのものが政府や外国が
作り出した架空の存在と信じているのだから、根本的なところで
意識が食い違っていることにほかならない。

▼きのうのNHK大河「軍師官兵衛」は中休みだったと感じた。
道薫(荒木村重)と子ども(だしとの間にできた)の再会で
あったり、豊臣秀吉と茶々(のちの淀君)のやりとりだったりと
女性ファンにはOKかもしれないが、タイトル通り軍師の場面を
多く演出してもらいたい。唯一、九州遠征が決まったことだろう。
勘兵衛41歳の夏、軍目付として九州へ出発する。
当然、連戦連勝である。これにより勘兵衛は1年後、豊前6郡
(京都=みやこ、築城=ついき、仲津、上毛=こうげ、
下毛=しもげ、宇佐)12万石の大大名となった。
きのうの石田三成とのやりとりの場面でも、四国攻略の時に
恩賞がなかったことが話題になった。
これは軍師官兵衛ならではのこと。
秀吉が織田信長に仕えていた頃、秀吉は信長にほとんど恩賞を
求めていない。なぜなら、信長がそれを嫌うことを知っている
からだろう。つまり秀吉の身に付いたものが恩賞を求める
部下を嫌うのである。ムリをしなくても才能を発揮する場面が
いくらでもある勘兵衛にとって恩賞は後から秀吉が勝手に
くれると思っていたに違いない。

8/15(金)キャプテンの一言

2014/08/15 金曜日 - 22:24:08 by captain

▼水曜に続いて都塚古墳の蘇我稲目関連の話を。
第33代推古天皇は75歳まで長生きしたために、第34代には
異母兄・敏達天皇の孫、田村皇子が即位した。天智天皇、
天武天皇の父となる舒明天皇。田村皇子の対抗馬だったのが、
聖徳太子の子、山背大兄王(皇子とも)であったが、
推古天皇は崩御の直前、彼に対して「他の人の意見も納(い)
れるように」と諭している。また、田村皇子にも「謹んで
物事を明察するように」と話して、どちらかを後継者に
指名しなかったといわれている。日本書紀は彼が聖徳太子の
子どもと明記していない。しかも生まれた年月日を分かって
いない。また、蘇我入鹿に殺されたとされるが、一旦、山中に
逃れながら、斑鳩寺へ立ち返り自害したとされる。
この時、東国へ避難して立て直して入鹿に反撃しようと
進言した部下に対して「われ、兵を起こして入鹿を攻めれば
勝つことは間違いない。
しかし、我が身より百姓(おおみたから)を傷つけることを
求めない。ゆえにこの命を入鹿に賜らん」といったという。

▼しかし、前記したように推古天皇は彼に対して「他人の
意見を聴きなさい」と諭している。つまり、天皇になるのには
人格がまだまだ足りないといっているのである。
その山背大兄王が聖人のような境地になるのだろうか。
確かに15年の歳月は人を成長させると思うが、一説によると
一族23人を道連れにしたという行為は聖人になったとは
思えない。ということで、これは創作ではないかと考えて
しまう。つまり山背大兄王そのものが書記=藤原不比等に
指示=による蘇我氏を「悪」にするための架空の道具だった
のではと思っている。

▼ところで都塚古墳がピラミッド型の方墳であることで、
ピンとくるのが出雲地方を中心に存在する「四隅突出型墳
丘墓」である。弥生時代中期後半から見られる墳墓で、
方墳の原型の可能性もある。出雲は素戔嗚尊(スサノオノ
ミコト)を始祖とする王国で、出雲一の宮・熊野大社の祭神。
末裔・大国主命が同じく出雲一の宮・出雲大社の祭神と
なっている。大和政権=天照大神の子孫・神武天皇=による
大国主命の国譲りは事実あったであろう。しかし、強力な
独裁体制でなかったため出雲族も中枢に残って手腕を発揮
していたと思われる。それらが出雲を祖とする蘇我氏で
あったり、葛城氏、物部氏だった。しかし、倭の5王の時代に
なると天皇の権力が集中するようになり、権力構造が変化して
いったのだろう。それでも出雲王国が存在したことは
間違いないと信じている。

8/13(水)キャプテンの一言

2014/08/13 水曜日 - 22:30:59 by captain

▼奈良県明日香村の蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳を望む
都塚古墳(みやこづかこふん)が階段状に石積みされた
大型の四角い方墳であることが分かった。
きょう、明日香村教育委員会と関西大学考古学研究室が
明らかにしたもの。大きさは東西におよそ41㍍、南北に42㍍で、
このピラミッドのような特異な外観は国内ではほとんど
知られていない。埋葬主は馬子の父、稲目という説が有力に
なってきたらしい。薄葬令(646年)前の古墳とはいえ、
かなりの規模を誇っている。
蘇我氏は第8代・孝元天皇のひ孫、武内宿禰を祖としており、
蘇我氏のほか、葛城氏、平群氏、巨勢氏、波多氏などと
同族になるとされている。6代目の稲目は大臣として勢力を
大いに拡大した。特に欽明天皇に娘の堅塩媛(きたしひめ)、
小姉君(こあねのきみ)を嫁がせて、さらに権力を集中させた。

▼この権力確保の方法は、のちに藤原不比等が実践して、
外祖父の地位を得て、長期に亘って権力を手に入れた。
稲目の子ども・馬子は稲目にも増して権力を手に入れ、蝦夷、
入鹿と続いていく。馬子は日本初の女帝・推古天皇の時代、
聖徳太子とともに政治を行っていた。推古天皇は堅塩媛と
欽明天皇の子どもである。実をいうと、この時代の政治を
行っていたのは蘇我馬子だとボクは思っている。理由として
聖徳太子は実在しないと思っているから。
日本書紀にも「聖徳太子」とは書かれていない。しかも
子孫一族が山背大兄王(やましろおおえのおう)以下、
誰も存在しないという事実は、母方で育てられることが
常識のこの時代においてあり得ない。
また、中国の歴史書にも聖徳太子は出てこない。
17条憲法などの事蹟についても使われている言葉の時代が
違うと言われている。また、この時代に日本(当時は倭国)に
随の煬帝の命を受けて訪れた裴世清(はいせいせい)は
当時の日本の王に拝謁して皇帝の言葉を伝えている。
しかし、この時の天皇は推古女帝のはずだが、その記述はない。
あくまで王(男)に会ったのである。これを聖徳太子だとの
主張も当然あるが、架空の人物説をとっているボクとしては、
この時の王は蘇我馬子だったとしか思えない。つまり蘇我の
家系図は藤原不比等によって改ざんされてしまった

▼そうすると、蝦夷は王家しかできない「やつらの舞」を
踊らせたとか、住まいを宮門(みかど)と呼ばせたり、
天皇家なら普通のことを行っている。もちろん、蝦夷や入鹿が
本名だとは思えない。これはあくまでボク個人の意見なのだが…。

8/11(月)キャプテンの一言

2014/08/11 月曜日 - 22:35:35 by captain

▼主役ではあるが褒めすぎのよう。おね(黒木瞳さん)が
「官兵衛がいなければ戦は勝てません」と大見得を切った。
きのうのNHK大河「軍師官兵衛」。徳川家康と羽柴秀吉との
天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」で実質的に
秀吉は完敗した。特に秀吉軍はおいの秀次を総大将とした
部隊が散々な目に遭い、池田恒興と長男・元助、森長可
(本能寺の変で闘死した森蘭丸の兄)が戦死した。
秀吉軍はおよそ7万人とされ、それに比べ家康軍は織田信長の
次男・信雄軍と合わせても半分のおよそ3万5000人だった。
官兵衛この時、39歳で番組の通り、毛利との境界決定などの
功によって宍粟郡を領地としている。
きのうの番組で特に感じたのは、石田三成を非常にイメージ悪く
描いていたということ。秀吉は三成の能力は高く評価していたが、
それは文官としての管理能力であって戦闘に関する能力は
評価していなかったと思われる。映画「のぼうの城」での
三成の作戦はことごとく失敗している。人の能力を見抜くことに
かけては「天才」といっていい秀吉が戦に関して三成を
信頼するとは思えない。これは悪役にするための布石では
ないだろうか。黒田家は関ヶ原の合戦で三成・西軍の敵、
家康の東軍につくわけだから。ただし勘兵衛の長男・長政ではあるが。
それにして「黒田勘兵衛とは何者だ」と話す家康はとても
43歳とは思えない。これはやはり関ヶ原の合戦での家康か
「大坂の陣」のイメージで作られたのだろう。

▼AFP時事によると、2010年のチリ巨大地震によって南極で
「氷震」が起こっていたという研究論文をアメリカの
ジョージア工科大学の研究チームが発表したと伝えた。
「氷震」とは聞き慣れない言葉だが、地震の“氷版”で氷山、
氷河、氷塊などが形成される時や崩壊する時に起こり、地面とは
直接関係なく起こるもの。チリ地震は2010年2月27日に
中部コンセプシオン沖を震源とするM=マグニチュード8・8
(アメリカ地質調査所、日本の気象庁発表では8・6)で、
津波は日本にも到達した。この時、南極では点在する42カ所の
うち、12カ所で表面近くの氷が砕ける「明白な証拠」を
観測したという。
南極の氷は温暖化によってどんどん溶け出している。
その上、地震でも砕けて南氷洋に流れ出ることになれば
海面上昇の速度は増すばかり。地震は自然現象だから人間は
どうしようもない。
しかし温暖化は人類の営みから生まれてきたもの。
その気になれば抑えることができるだろう。

8/8(金)キャプテンの一言

2014/08/08 金曜日 - 22:26:45 by captain

▼波乱の一生を送った後鳥羽上皇の遺構が見つかった。
島本町教育委員会によると、大阪府島本町にある西浦門前遺跡に
後鳥羽上皇が再建した水無瀬離宮とみられる鎌倉時代の建物跡で、
上皇が隠岐に配流された承久3年(1221年)の承久の変以降も
存在したことが確認されたという。
後鳥羽上皇は治承4年7月14日(1180年)に父・高倉天皇、
母・坊門殖子(ぼうもん・しょくし、藤原殖子とも)の間に
生まれた。この年代をみても分かるように平家の時代でしかも
末期、2年度には平清盛が死亡している。高倉天皇の親王という
ことは、壇ノ浦で入水して亡くなった安徳天皇とは兄弟(異母兄弟)
ということになる。寿永2年(1183年)に安徳天皇が在位中
(平氏とともに西国にいた)にも拘わらず、後白河法皇の
意向を受けて即位している。
しかし、「三種の神器」は安徳天皇の元にあったため、神器なき
異例の即位となった。

▼建久9年(1198年)土御門天皇に譲位して上皇となる。
翌年には鎌倉幕府・初代将軍の源頼朝が亡くなり、長男・頼家が
2代将軍となったが、わずか4年弱で失脚して次男の実朝が
将軍に就いた。この実朝と後鳥羽上皇は「いい関係」だったと
いわれている。特に和歌に関しては相当、意気投合したようで
後鳥羽上皇は「新古今和歌集」を、源実朝は「金槐和歌集」を
編纂したことで有名。2人には他にも共通点があり、実朝の
正妻は坊門信清の娘、信子(しんし)なのだが、この信清は
後鳥羽上皇の母・殖子(姉)とは兄弟という間柄。
こうした関係から瞬く間に正二位・右大臣まで駆け上がった。
これを鎌倉の御家人が快く思わなかったのは当然のことだろう。

▼後鳥羽上皇は承久の変で今の隠岐・海士町へ流されて京へ
帰ることなく延応元年(1239年)2月20日崩御した。
「後鳥羽院」と称されるようになったのは、孫の後嵯峨天皇が
即位してからのことで、亡くなってから3年後のことである。
隠岐では源福寺を行在所としていた。源福寺は明治2年の
廃仏毀釈で壊されてしまったが、火葬された火葬塚は今も
参拝者が絶えることはない。火葬塚は隠岐神社のすぐ横にあり、
大通りからも近いので、隠岐へ旅行の折は是非お参りして
いただきたい。ついでながらボクも隠岐・海士町の生まれ。